鴨々川ノスタルジア関連のイベント「中島公園・すすきの名所を巡るガイドツアー」に参加した。10月10日の中島公園散歩ツアー、昼の部1時間半コースである。スタートは札幌パークホテルで森の歌、水天宮、日本庭園、八窓庵、菖蒲池、豊平館、天文台、キタラ、香りの広場、文学館の順で散策した。
中島公園ガイドツアーのスタートは札幌パークホテル、ご案内は観光ボランティアガイドさん。中島公園に入ったこの出入口は地下鉄中島公園駅3番口の正面に位置しているのでとても便利だ。
先ず、山内壮夫の彫刻「森の歌」の前で簡単に歴史的説明があった。この辺りは扇状地で川が何本もあったそうだ。今では鴨々川一本しか残っていない。これだけは自然に近い形でいつまでも残してほしいと思う。
次に水天宮、中島公園界隈で一番古い神社だが、護国神社、弥彦神社に比べて小さい。久しぶりに見たが最近整備したのか、一部の施設が新しい。久留米に本社のある水難、安産の神社と言う。昔、豊平川は暴れ川と言われ、鴨々川もよく氾濫した。水難避けを願ってのことかも知れない。

豆柿が生る珍しい木がある飲食店「花月」。その前を通って日本庭園に入った。1963(昭和38)年に日本庭園完成した時は10基の石燈籠があった。1971(昭和46)年9月8日に八窓庵が北4条西12丁目から移設された。その時八窓庵の庭に3基の石燈籠が設置された。日本庭園には13基もの立派な灯籠がある。全部京都の石屋に作らせたそうだ。

ここが国指定重要文化財八窓庵だが、実はこの玄関を含むこちら側は大正時代に付設されたもの。江戸時代の八窓庵は画像の右奥の方だけである。八窓庵には八つの窓があるが、一つは天窓であることを今日初めて知った。

菖蒲池のルーツは1871(明治4)年に完成した鈴木元右衛門堀である。これが中島公園の歴史の始まりとも考えられる。池は開拓初期に貯木場として使われた。豊平川上流の山で切り出した木材を鴨々川を経由して貯木場に集め、そこから下流にある製材所に川に浮かべて運んだそうだ。運搬手段として水路の役目が終わると池は荒れ放題となった。たまりかねた住民は1882(明治15)年6月鴨々中島を公園予定地にする意見書を提出したそうだ。これが中島公園の始まりと思う。
次に国指定重要文化財豊平館に行ったが現在大規模修復工事中なので外観を見ながらの説明となる。1957(昭和32)年5月31日豊平館が北一条西一丁目(テレビ塔付近)から中島公園に移転した。この年に中島公園が総合公園指定された。翌1958年北海道大博覧会が開催され、豊平館は郷土館及び美術館として一般に公開された。
豊平館前の池をはさんで札幌市天文台がある。1958年北海道大博覧会で雪印乳業館として建てられたものだが、閉会後は市に寄贈された。小高い所にあるが、ここは岡田山と呼ばれている。大正の時代までは岡田花園があり、料亭、花畑、釣り堀等があったと言う。岡田花園は現在の日本庭園、豊平館、天文台、キタラを含むだけでなく、今は住宅街となっている鴨々川の西側を含む極めて大きい花園とされているが正確な境界線は分からない。
現在札幌コンサートホール・キタラがある場所には北海道大博覧会の為に「子供の国」が設置された。1994年5月8日に廃止され、7月29日には円山動物園子供の国として再生された。最近になって円山子供の国も廃止され札幌での子供の国の歴史は終わった。単なる遊園地ではなく本当の意味での子供の国の設立を願っている。全てを子供が運営する子供の国自治区なんて面白いと思う。
北海道大博覧会の跡地は百花園や噴水広場が整備され、山内壮夫の彫刻5体が設置された。百花園等は平成の再整備以後から緑のオープンスペースとして使われている。4体の山内作品は「香りの広場」と呼ばれる百花園跡地に再配置され、「森の歌」はブロンズで再鋳造され9条広場に移設された。画像の彫刻は「笛を吹く少女」、観光ガイドさんが説明をしているところを1枚撮らせて頂いた。
コースの最終は道立文学館。歴史ある中島公園にキタラと共に文化を支える重要な施設である。振り返ってみると中島公園は各時代に大きく変化した。明治時代に造られ大正時代の開道50年記念博覧会で大躍進、昭和時代は北海道大博覧会で大飛躍、それに比べて平成の再整備は静かのものだった。多くの施設は撤去されオープンスペースとなった。これからの中島公園が目指すのは水と緑、歴史と文化の公園がいいと思う。ハードよりソフト、歴史を深く掘り下げることが重要と思う。ガイドツアーを終えてそう考えた。