2015年10月24日
北海道初「竹あかり」
秋の日本庭園、築山林泉回遊式
中島公園にある日本庭園は「基本的型式と言える築山林泉回遊式とし、奥山から発した流れが瀬を走り、淵に寄り、平野を流れ、沼に休み大海に注ぐまでの自然風景を縮景」したものだそうだ。そのようなつもりで水系を歩いてみた。

あの橋の向こうは菖蒲池、この池に比べれば大海だ。菖蒲池を出た水は水天宮前で鴨々川と合流し、鴨々川はよどんでいる茨戸川に清流を注ぎ込みキレイにしている。遥かな道のりを経て「奥山から発した流れ」は本物の大海に注いでいる。カッコ内の文は工事報告書からの抜き書きと『さっぽろ文庫』に書いてあった。
2015年10月23日
秋の日本庭園10月6日〜22日
2015年10月22日
中島公園秋景色10月21・22日

菖蒲池西岸より東岸を見る。左端のビルはホテル・ライフォート。泳いでいるのはマガモ。
2015年10月18日
桜蔭会北海道支部の皆様をご案内
2015年10月18日 桜蔭会北海道支部の皆様をご案内
桜蔭会(お茶の水女子大学同窓会)北海道支部が中島公園で「自然・歴史・文化を散策する会」を開き、案内役に私を指名してくれた。とても有難い。中島公園が大好きで14年前、近隣に転居した。サイトも毎日のように更新している。このような機会を与えてくれたことに感謝!
北海道大博覧会のアメリカ館周辺。画像提供札幌のHorikawaさん
今回のテーマは1958(昭和33)年に行われた北海道大博覧で、その会場となった中島公園内を、紅葉を見ながらゆっくりと散策するという趣旨。博覧会は中島公園の南側の敷地を利用して開かれた。しかし紅葉も見てほしいので北側から歩き始めることにした。
散策は中島公園の北側にある山内壮夫の「森の歌」から始めた。この彫刻は博覧会終了後、その成功をを記念して博覧会跡地に立てられたが、1997年永久保存の為ブロンズで鋳造して現在地に移設された。
「札幌市は、中島公園を芸術文化・歴史ゾーンに再生しようとしている。『森の歌』は、そのモニュメント像となっているようだ」と『さっぽろ文庫84中島公園』に記されている。ほぼ同じ時期に札幌コンサートホール・キタラと道立文学館(1995年)が新設された。
140年ほど歴史を遡ると、中島公園周辺は扇状地で川が何本もあったそうだ。今では鴨々川一本しか残っていない。これだけは自然に近い形でいつまでも残してほしいと思う。
水天宮は中島公園界隈で一番古い神社だが、護国神社、弥彦神社に比べて小さい。最近整備したのか、一部の施設が新しくなっている。久留米に本社のある水難、安産の神社だそうだが、昔、豊平川は暴れ川と言われ、鴨々川もよく氾濫した。水難避けを願ってのことかも知れない。
「1879(M12)年頃、旧久留米藩士水野源四郎が、故郷久留米の水天宮の御分霊を札幌に勧請したが、市内を転々とし、ようやく1889(M22)年に現在地に社殿を建立した。以下略」と『中島公園三十三選』に記されている。
紅葉になり始めた菖蒲池周辺。前方に見えるのは藻岩山。
菖蒲池のルーツは1871(明治4)年に完成した鈴木元右衛門堀である。これが中島公園の歴史の始まりとも考えられる。池は開拓初期に貯木場として使われた。豊平川上流の山で切り出した木材を鴨々川を経由して貯木場に集め、そこから下流にある市内の製材所に川に浮かべて運んでいたそうだ。
運搬手段として水路の役目が終わると池は荒れ放題となった。たまりかねた住民は1882(明治15)年6月、鴨々中島を公園予定地にする意見書を提出したそうだ。これが中島公園の始まりと思う。
飲食店花月の豆柿は札幌ではとても珍しいと造園の専門家から聞いている。豆柿とは「シナノガキの一種で,葉に毛のないもの。果実は球形で直径約1.5センチメートル,熟すと黒色となる。未熟果から柿渋をとる。柿渋は血圧降下薬とする。(コトバンク)」と記されている
中島公園の北側には博覧会の跡地はないが、紅葉がきれいなので散策コースに入れてみた。次に日本庭園に向かう。
日本庭園内の国指定重要文化財八窓庵。八つの窓があるから八窓庵だが、八つ目の窓は屋根に付いた天窓。
1963(昭和38)年に日本庭園完成した時は10基の石燈籠があった。1971(昭和46)年9月8日に八窓庵が北4条西12丁目から移設された。その時八窓庵の庭に3基の石燈籠が設置された。日本庭園には合わせて13基もの立派な石灯籠がある。全部京都の石屋に作らせたそうだ。
紅葉が綺麗な日本庭園では写真を撮る人が多かった。
日本庭園の詳細はこちら → 中島公園日本庭園・八窓庵
日本庭園の完成は1963年で博覧会開催5年後のことである。これか散策する豊平館以後が博覧会の痕跡を残している場所となる。 詳細 → 中島公園 最後の博覧会〜1958北海道大博覧会〜
国指定重要文化財豊平館は現在大規模改修工事中なので外観を見ながらの説明となる。1957(昭和32)年5月31日豊平館が北一条西一丁目(テレビ塔付近)から中島公園に移転した。この年に中島公園が総合公園指定された。翌1958年北海道大博覧会が開催され、豊平館は郷土館及び美術館として一般に公開された。
豊平館詳細→豊平館札幌 国指定重要文化財
豊平館前の池をはさんで札幌市天文台がある。1958年北海道大博覧会で雪印乳業館として建てられたものだが、閉会後は市に寄贈された。小高い所にあるが、ここは岡田山と呼ばれている。
天文台詳細→札幌市天文台
大正の時代までは岡田花園があり、料亭、花畑、釣り堀等があったと言う。岡田花園は現在の日本庭園、豊平館、天文台、キタラ、今は住宅街となっている鴨々川の西側を含む極めて大きい花園とされているが正確な境界線は分からない。岡田花園詳細→明治・大正の岡田花園
札幌コンサートホール・キタラがある場所には、北海道大博覧会に合わせて「子供の国」が誕生した。36年間にわたり子供たちを楽しませたが、1994年5月8日に廃止され、7月29日には円山動物園子供の国として再生された。
2010年9月30日「円山子供の国キッドランド」が閉園した。そして札幌での子供の国の歴史は終わった。出来ることなら単なる遊園地ではなく本当の意味での子供の国の再生を願っている。全てを子供たちが運営する子供の国自治区なんて面白いと思う。
北海道大博覧会の跡地は百花園や噴水のある中央広場が整備され、山内壮夫の彫刻5体が設置された。
詳細→思いでの山内壮夫ワールド
百花園等の施設は平成の再整備以後に撤去され緑のオープンスペースに変わった。4体の山内作品は「香りの広場」と呼ばれる百花園跡地に再配置され、「森の歌」はブロンズで鋳造され9条広場に移設された。
百花園跡地である香りの広場を後にして、木下成太郎像に向かう。第二次世界大戦が終結して70年たつ。日本は戦争で人だけでなく、多くの美術品をも犠牲にしたが、日本美術界の重鎮であった朝倉文夫のブロンズ像400点余も、戦時中の金属供出のためにつぶされた。
そして大砲などにされ、そのほとんどが失われた。この様な状況の中で、木下成太郎像が台座・基壇と共に、残されたことは、奇跡と言ってもよいと思う。いずれは豊平館、八窓庵に次ぐ中島公園第三の歴史的資産として社会的にも認められるのではないかと期待している。
木下成太郎像から菖蒲池に向かって歩くと、右側に名木ハウチワカエデ”舞孔雀(まいくじゃく)”がある。豊水通にあった料亭「雅叙園」の玄関脇に植えられたものだが、廃業にともない公園に寄贈された。
舞孔雀は公園で一番の場所に移植されたが、周辺の変化により、今では余り目立たなくなっている。ところで文学館の向かいにはヨーロッパクロマツが3本植えられているが、そこが雅叙園の跡地である。
以上で、自然・歴史・文化を散策する1時間30分の小さな旅が終了した。毎度ながら拙い案内で申し訳ないのだが、大好きな中島公園を案内する機会を与えられたことを心から感謝!
桜蔭会北海道支部の皆様、中島公園訪問有難うございました。
2015年10月14日
中島公園秋景色10月14日
中島公園10月のオシドリ
水天宮リニューアル
2015年10月11日
2015中島公園見どころ探訪ツアー

ツアーは山内壮夫の彫刻「森の歌」から始まった。この像は1958年開催の北海道大博覧会終了後、博覧会を記念して跡地に建てたもの。当時は噴水の中に建つ白亜の彫刻だった。ガイドさんが見せているのは当時の写真。下に似た感じの写真を掲載する。

開道50年記念博覧会が開かれた1918年に建てられた「四翁表功之碑」。開拓初期に活躍した4人は個性豊かな人。水原(すいばら)寅蔵、大岡助右衛門(すけえもん)、石川正叟(しょうぞう)、対馬嘉三郎(かさぶろう)。

左より「中島公園マップ&ガイド」、ライラックの花が綺麗なクリアファイル、中島公園日本庭園(八窓庵含む)石燈籠と中島公園「日本庭園」平面図、「中島公園三十三選」。日本庭園の石燈籠一覧が特に素晴らしい。以前から調べようと思っていたのが一覧となって与えられたので、驚きながらも感謝感激。探訪ツアーではいつも貴重な資料を頂いている。

1941年に建てられた「木下成太郎像」は、当時東洋のロダンと言われた朝倉文夫の作品。多くの作品が戦時中の金属供出で潰されて兵器にされた中で生き残った貴重な存在。この数年その価値を見直す動きが強まっている。豊平館、八窓庵に次いで中島公園第三のお宝になる気配濃厚。建てられた時のまま木下像、台座、基壇が揃って残っているのが強み。