2014年11月27日 晩秋の中島公園菖蒲池
建材が木材であった昔、菖蒲池は貯木場だった。山で切り倒された木々は川を使って運搬された。豊平川を下り鴨々川の途中に貯木場を造り、そこに木材を貯めた。そして街中の需要に応じて木材を川に流して運んでいた。
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考えてみれば中島公園も札幌の歓楽街ススキノの外れ、池の周りにもススキが繁茂している。開発前は薄野に地続きのススキが繁る原だったと想像してしまう中島公園。ところで、薄野は新宿の歌舞伎町や福岡の中州と並ぶ日本三大歓楽街だそうだ。その徒歩圏に、こんな公園があるのもいいかなと思う。

ここは冬期閉鎖中のボート乗り場。4月下旬になれば元通りの波止場となる。左上に小さく見えるのが「四翁表功之碑」。ソフトクリームの様な形をしている。四翁とは、水原寅蔵、大岡助右衛門、石川正叟、対馬嘉三郎の4人で、札幌の開拓に貢献した方々。私にとっては何とも親しみ難い表功碑だが、『さっぽろ文庫84中島公園』に面白いことが書いてあった。
大岡助右衛門は豊平館等の多くの大工事を指揮した”建築業界の草分け”といわれる人物だが、バクチが大好きだった。1871年、同じく表功碑記載の水原寅蔵と共にバクチで捕らえられ、創成川のほとりで百叩き”笞杖(ちじょう)百”の刑に処せられた。開拓期を代表する人物の一面を知り、この碑像に親しみを覚えるようになった。ところで、水原(すいばら)は薄野から中島公園一帯に大規模な果樹園を開設した。水原は最初にリンゴの栽培に取り組んだ人として知られている。