「ならぬ堪忍するが堪忍」。出来ることなら丸く治めたいと思い、たいがいのことは我慢している。
二人暮らしが定めなら楽しく暮らそうと工夫もしている。 こんな私でも譲ることの出来ない一身の面目と名誉がある。
なさそうであるのが「男の一分」。 「亭主、おん出してやったわ」とAさんが、いきまいている。
「ホントですか」
「私が眠れないから、ラジオつけたり、本読んだりするでしょ」
「そうそう。私もそうしています」
「そしたら、あのろくでなし、眠れないとか、あーだーこ〜だ〜いうのよ。 眠れないのは私じゃあないの」
そろそろ爆発の予感。ここは黙って聞いておこう。
「
るさいわねぇ! 部屋なんかいっぱいあるでしょ、好きなところに行って勝手に眠むんなさい!」
そういえばAさんの家は大きい。 広い居間の他、子ども部屋4室はすでに空き部屋、それに客間、応接間、書斎。グランドピアノを置いた音楽室まである。
「ご主人ビックリしたでしょう」
「出たっきり、帰ってこないのよ〜」
「家の中で寝ているのなら、いいじゃないですか」
「淋しくなったら、いつ帰ってもいいのよ。と言ってあげているのに、まだ帰ってこないのよ〜」
「優しいのですね。 私なんか、もう帰って来なくていいと言われてしまいました」
「どこから?」
「病院からです」
「そう、病院から帰らないとすると…、焼き場に直行かな?」
「もっともっと酷いところがあるのですよ。知ってますか」

つい先日のことである。朝、病院に行こうとすると、QPの「服装チェック」が始まった。毎度のことだが、もうウンザリだ。 出かけようとするとジロリと見てケチを付けるのだ。
「病院にいくときはズボン替えて行ってよ」。 今日は整形外科だから菌をもらってくる心配はないと思う。 こんなときにでもチェックが入るのだ。
あ〜ぁ、叉か。と思いながらも、素直に「はいはい」と言っておく。 朝から揉め事はゴメンだ。 とりあえず、ズボンを脱いでステテコ姿でいた。
「何よ!その格好」
「ズボンを替える準備です。 このままでは外には行けないでしょう。 替え忘れる心配がないのですよ。いい考えでしょう」
「そんな、みっともない格好して、誰か来たらどうするの。 時間がないから出かけるからね」
「はいはい、行ってらっしゃい」。 続いて、小さな声で独り言 「せいせいするわい」。 これが聞こえてしまったようだ。 厳しい言葉が返ってきた。
「病院に行ったら、
もう帰って来なくていいからね!」
簡単に言うけれど、病院に行ったきり帰れないとすると「焼き場」にも行けやしない。 大学医学部の地下にある「ホルマリンプール」行きが相場である。
私の抜け殻も人体解剖用にプールに沈められるらしい。 ひょんな調子で浮き上がると棒で突っつかれるそうだ。 打ち所が悪いとバラバラに壊れてしまうのだと…。ああ恐ろしい。

Aさんに呼ばれていたので、病院の帰りに寄ってみた。心に傷を負っているので慰めてもらいたい気持もあった。
「精神的虐待を受けているのです。これってドメスティック・バイオレンスじゃあないですか」
「そこまで想像するあんたが異常よ! 早くお家に帰りなさい」
「用事があると言うから、来て上げたのですよ…」
「草むしりでもしてもらおうと思ったのだけど、腰痛じゃあねぇ。 亭主は膝がガクガクだというし。まったく情けない男ばかりだねぇ」
「庭の草むしりぐらい自分でやって下さいよ」
「公園の草むしりよ。皆でやろうと言ったでしょ」
「アレッ! 今日でしたか?」
「ヒマができたときパッとやらないと、いつまでたってもできないでしょう」
体調不良ということで解放されたが、「帰って来なくていい」といわれているのに直ぐ帰るのも癪だ。
中島公園をブラブラして、腹が減ったら「狼スープ」にラーメンでも食べに行き、その後で帰ることにした。
昨日は二人仲良く映画「相棒」を観に行ったのに、今日は「悪妻は百年の不作」と思い、顔も見たくない気分だ。 本当に人の気持は移ろい易いものである。
しかし、41年一緒に暮らしていたら「仲良し」と言われても仕方がない。 なぜ、仲良しなのだろうと考えてみた。 答えは意外に簡単だった。二人ともケチだからだ。
「こんな家、出て行く!」と言っても、実家に帰るには旅費もいるし、手ぶらと言う訳にも行かないだろう。 家の近くのホテルに泊まるにしても帰るまで、毎日お金がかかるのだ。
マンガ「巨人の星」の星一徹のように「黙れ!」と言ってお膳ひっくり返したら、さぞかし気が晴れるだろう。 その代わり、一食分の全てを失った上、お茶碗が割れるかもしれない。
こんなことを考えているようではハデなケンカなど思いもよらない。ケチケチしている間に41年もたってしまった。 時の流れは早いものだ。最近は特に早い。
「それに私たちは絶滅危惧種なのです」
「なに?」
「もうそろそろ人生終盤ですからね」
「それなら危惧はいらんね。先がないから絶滅種だろう」
「それはちょっと酷すぎるのではないですか」
「それじゃあ、絶滅タネ!」
「なんか変ですね」
「あんたが変なこと言うからだ。よく考えてみろ」それだけではない、名前までこの世から無くなろうとしているのだ。 約70年前モダンな名前として、颯爽と登場した「ひろし」と「ゆうこ」だが、今まさに滅びようとしている。
最近の名前をみても「ひろき」はあるけれど「ひろし」はない。 「ゆう」はあるけれど「ゆうこ」はない。
私たちの名前はは絶滅危惧名前なのだ。 「滅び行く名前の二人」がケンカなどしていて良いはずがない。
そう思って努力しているのは、私だけ。 QPはごく自然にあるがままの人生を送っている。 私だけが気をもんでガマンして、いろいろ工夫している。
不満は爆発する前に抜いてやらなければいけない。 ときどき意識的にガス抜きをする。これも工夫の一つだ。
「私に悪いところがあったら、遠慮なく言ってください」
QPはこんな質問に、ウッカリ返事をすると損だということを知らない。一生懸命考えてからこう言った。
「家の仕事より自分のやりたいことを優先するのが悪いよ」
「例えば、どんなことですか?」
この質問に答えれば、更に墓穴を掘ることを予想もしない。
「え〜と、ゴミを直ぐに出さないことかなぁ」
「分かりました。 今月の目標は、ゴミを早く出すことにしましょう」
今月と言っても後5日しかない。 1回か2回ゴミを早く出せばいいだけの話。私の仕事は何も増えないのに不満だけは消滅する。
こうして、我家の平和を守るため、日夜努力を重ねている。 自分で自分を褒めてあげたい。QPは決して、私を褒めないのだから。
「なんだ? 俺に相談って」
「実は、ケンカのできる普通の夫になりたいのですが…」
「ケンカすれば金がかかるよ。自分で言ってたろう」
「戦費のことは解決しました。 埋蔵金を取り崩す覚悟です」
「なんだ、そりゃ」
「特別会計です。QPの承認を得なくても自由に使うことが出来るのです」
「なんだ、ヘソクリか。真面目なフリして抜け目のない奴だ」
「もうガマンも限界です。工夫も尽きました」
「ケンカは度胸がいるぞ。あんたじゃ無理だ。QPさんの尻の下が一番安全なんだよ」
「核の傘の下に入れというのですか!」
「それしかないだろう」
「それでは男の一分が立たぬのです」
「オトコのいちぶだと?」
「いや」
「なんだ」
「面目が…」
「心配するな! 歳なんだよ。 実は俺も…」<国語のお勉強>
「一分」の読みは、「いっぷん」「いちぶ」「いちぶん」少なくとも3通りある。
「いっぷん」は時間の単位。
「いちぶ」は普通、10分の1を指す。野球の打率等1割の10分の1をいうことも多い。ごくわずか。
「いちぶん」は譲ることの出来ない一身の面目、名誉。