2007年12月07日

汽車弁家族(後編)

2007/12/7

「汽車弁家族(後編)」         
空襲で全てを失った私達家族は、明日の糧にも困る状態に陥りました。その解決策として汽車弁の食べ残しを集めることにしました。 当時は弁当を食べ残す人はほとんどいません。 そこで、全国から汽車が集まるB駅、操車場の清掃前の客車をターゲットに定めました。

名古屋の鯛めし以外は忘れましたが、全国津々浦々の弁当が我家の食卓に並びました。さながら、弁当品評会みたいなもので、それなりに楽しい食事でした。ただ、この宴を楽しむには一つだけ条件がありました。それは「だれにも知られない」 これが肝心です。

終戦前は豊かな暮らしをしていたので、極貧状態になってもプライドだけは高く、乞食同様の暮らしをしていることは秘密中の秘密でした。 後から考えれば、こんなことが長続きするはずはないのですが、当時は名案と思いました。

破綻は案外早くきました。運搬中に兄が警察に捕まりました。リュックを開けることを強引に拒んだので逮捕されたのです。中身はスカスカの残り弁当箱ですから、軽いのですがリュックの大きさが凄いのです。それでヤミ屋と疑われたのです。

交番に連れて行かれリュックは強制的に開けられました。中身を見た警官は同情し、詫びて励ましてくれたそうですが、兄の受けたショックが収まる筈がありません。警察に捕まったのが、ショックなのではなく、残飯を食べていることを知られたのがショックなのです。

兄は10歳までは豊かな家庭の坊ちゃんとして育ちました。3年後には、この落差です。兄は立ち直れなくなり、その後、病床に臥し回復するのに数年もかかりました。一家も食うに困る生活に逆戻りです。

長男はショボクレテしまっても、次男と私はまだ元気が残っていました。これも兄の汽車弁のお陰と感謝はしています。

「腹減ったな、車庫をやるぞ!」と次男が言うと、私は「ガッテンだ」と応じました。 車庫というのは、近くにある路面電車庫のことです。まだ空襲で焼けた資材が利用されることもなく放置されていました。

人気のないことを確認して、二人でやっと持てる大きさの鉄棒を持ち出しました。「アカ(銅)なら金になるんだがな〜」とかボヤキながら馴染みのクズ屋に持って行くと、足元をみられてたった8円でした。甘食(小さな甘いパン)買って半分ずつ食べました。

これが最後の「悪事」です。10歳からは新聞配達のアルバイトを見つけて正当な報酬を得るようになりました。

私はテレビなどで、戦時下に置かれた小さな子供が、くわえタバコなどをして粋がっている姿をみると何となく愛おしく感じます。 子供が大人ぶって虚勢をはらないと生きていけない地域が、今でもあることは不幸なことです。(完)
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エサを失った鴨は人のくれるパンを求めて地下鉄幌平橋駅に向って行きます。60年前、食料というエサを失って遠いB駅の操車場に向った、私達家族の姿とオーバーラップします。 

日本は食糧自給率40%ですが、戦争どころか食料難の苦労も知らない人がほとんどになりました。 人間が、可哀想なあの鴨のようになる条件が出来てしまいました。地球温暖化と相俟って危険水域に入っているのではないでしょうか。
posted by nakapa at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記