2007年12月02日

首領の息子(後編)

2007/12/2

「首領の息子(後編)」         
近所のバラックに住んでいた窃盗団の首領が逮捕され、その息子(Kちゃん)が激しい苛めに遭いました。しかし、Kちゃんは果敢に抵抗しました。

近所の悪がきも、小便かけられて黙ってはいません。更なるいじめが始まります。そのたびにお婆さんが血相変えて「Kちゃんをなぜいじめるの!」と怒鳴り込んできます。Kちゃんのお父さんが捕まった後は、満州(中国東北)から引き上げてきた独身のお婆さんが、その子の面倒をみていたのです。 

兄達もレストランでご馳走になった、ご恩があるので、立場が微妙でした。悪がきとKちゃんの間でいつもオロオロしていました。 お婆さんも身寄りがなく、その首領にはそれなりの「ご恩」があったのだと思います。 

底辺の生活は、思いやりなど何処吹く風、みんな生きるのに必死です。 全ては貸し借りです。 首領が刑務所を出るまでKちゃんの面倒をみるのは、貧乏なお婆さんにとって大きな貸しになります。この「貸し借り」の中でも人情が発生する余地があるのです。終戦直後の必死の生活を一面的にとらえてはいけません。
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昔は好かったなどと思ったことは一度もありません。 昔から脱出できて本当に好かったと、幸せに感じています。 今の映画「男たちの大和」「硫黄島からの手紙」もいい映画ですが、時代考証はどうなっているのだろうと疑問符が付く場面はいくつもあります。

時が経つと過去のことは忘れられるだけでなく、不正確になります。「雲流れる果てに」「人間魚雷回天」など戦争体験者が作った昔の映画を観ると違いがよく分かります。もちろん、こちらは正確です。

「昔が好かった人」は実際にいたでしょう。しかし、「昔が悪かった人」は圧倒的に多いと思います。経済、治安、道徳あらゆる面でです。気分的には現在は不安な時代です。しかし、昔は現実的に不安でした。病気になったら働けなくなり食えなくなって死ぬと思い、ビクビクしながら生活していた人は少なくなかったと思います。
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2007年12月01日

首領の息子(前編)

2007/12/1

「首領の息子(前編)」          
私自身は「焼け跡生活体験者」です。戦争体験者と違ってインパクトはかなり小さいですが、それなりに特殊な経験と思っています。しかし、それは映画、テレビドラマ、小説等に正確に表現されることはありません。

アメリカ軍の空襲で家を失った人々は焼け跡から、焼けトタン・焼け焦げた木や木材を集めて住処を作り、バラックと呼んでいました。1949年の区画整理まで、焼け跡の象徴;バラックに住んでいた人は、A市においては僅かです。ほとんどの家は1947年までに、安普請とはいえ木造の家に変わりました。 

正確に言えば近所には我家同様のバラックが2、3軒ありました。一軒に何家族も住んでいるので、20人くらいいました。しかし、住人はドロボー、オカマ、売れない俳優、年老いた売春婦等で、住所不定です。差別するわけではありませんが、住人とは言えないと思います。

ドロボーはかなりエライ人で捕まったときは3面記事のトップに写真入で載りました。「窃盗団の首領」と書いてありましたが、穏やかな親切そうな人でした。 もちろん、親切なのには訳があります。
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兄達がA駅近くのレストランでご馳走になったりして、お世話になっていました。後で考えると、首領には7歳くらいの男の子がいたので、その子をよろしくと言う意味だと思います。レストランでご馳走になることが、とても羨ましかったので今でも覚えています。

小学生がレストランに行くのです。凄いでしょ。 現在60代以上の人で小学時代にレストランに行った経験のある人は、いったい何人いるでしょうか。

首領の息子は彼の父が逮捕されてから、近所の悪がきどもに苛められました。気の強い子なので、建築中の家の2階から下で遊んでいる悪がきどもに小便かけたりして、仕返しをしました。不意打ちですね。 

当時は戦後復興の真っ最中で、あちこちに建築中の家があり、子供たちの絶好の遊び場になっていました。
(昔はよかったでしょうか? -続く-)
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