2007年12月12日

マッサージのS先生(後編)

2007/12/12

「マッサージのS先生(後編)」         
私は家の中を修羅場にしたくはない。 自分が我慢すればすむ事なら、なんとか穏便にすませたい。 分からず屋のQPと喧嘩するかわりに、自室にこもって、パソコンにQPの悪口を書くことが、そんなに暗いだろうか。 名案と思った、この対応をS先生に「暗いね〜。アッハッ、ハッ、ハ〜」と笑い飛ばされてしまった。

どこの世界でも意見の対立はあるものだが、順序立てて説明し、二三の裏づけになる証明さえすれば、少なくとも、そのことについては納得してもらえるものである。大抵の場合は「君の言うことは分かる。しかし、......」ということになる。しかし、QPの場合は全く違う。「それは違う。 悪いのはあんた」の一点張り。 何回も説明して、例を挙げて証明してみせても同じことである。

「男は外に出れば7人の敵がいる」と よく言われるが、家の中にこんな強敵がいるとは、夢にも思わなかった。 うかつにも、退職して家にいて初めて気が付いたことである。

二人っきりの喧嘩は仲裁が入らないので、限りなく続く。 私は「説明と証明」。 一方、QPは「あんたが悪い」の一点張り。 両者のエネルギー消費量を考えれば勝敗の帰趨は明らかである。

「苛められて悩んでいるときはパソコンに語しかけると、答えを出してくれるんですよ」と私。
「暗いね〜。パソちゃんは何て言ってたの?」
「QPは良い人だけど、相手の身になって考えることが出来ないんだ。 と言ってました」
「正直なのね」
「そういえば......、嘘つかないですよ。 約束は守るし、時間も正確。 それから......」 
いつの間にかQPの良い点ばかりを話し続けていた。

「だいぶ明るくなったじゃない。 嬉しそうな顔して」
「えっ! 見えるんですか」
「見えますよ。はっきりと......。 QPさんの勝ち誇った顔が」
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純白の銀世界に映る木の影がとても美しく、真っ白な半紙に描いた書のようだ。私の心も、この雪のように真っ白でありたい。白いからこそ、影が美しく見える。
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2007年12月11日

マッサージのS先生(前編)

2007/12/11

「マッサージのS先生(前編)」         
〜身も心もほぐれて〜 
およそ6年前、現住所に転居したころは体調が最悪だった。 とにかくあちこち痛い。整形外科に行っても埒が明かないので、マッサージ治療を受けることにした。 

担当のマッサージ師は目の不自由な若い女性で、S先生と呼ばれていた。 マッサージの腕は確かだが、とにかく よく喋り よく笑う。 「暗いね〜。あんた暗いね〜」と言いながら笑うのである。

S先生はマッサージをしながら、耳だけを傾けてくれそうな気がして、とても話しやすい。 それに、私のことを水も滴るいい男と思ってくれるかも知れない。 なんたって、頭と顔のマッサージはないのだから。

目が不自由な先生から「暗いね〜」と言われては、立場がないが、どんな風に言われるか、例を挙げてみよう。

「喧嘩したのね。 それで、どうしたの?」とS先生。
「自分の部屋に入って鍵をかけたんです」と私。
「QPさんから逃げたわけね」
「QPは攻めて来たりしません。 ただ、中で何をやっているのか見られたくなかったのです」
「見られたくないって、何をさ?」

と問われ、ちょっと答えを躊躇した。 患者は私一人だが、院長先生も、受付もいる。 彼らには聞かれたくない。 それで、小さな声でボゾボソと答えると。

「えっえ〜!パソコンでQPさんの悪口書いているって〜! あんた暗いね〜。ホントに暗いね〜。アッハッ、ハッ、ハ〜」

私の名案もS先生に豪快に笑い飛ばされてしまった。 これを聞いた受付の若い子は一体どう思っただろうか。 気になって仕方がない。 --後編に続く--
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なんて明るい人だ、S先生は。 快晴の空のように明るい。 新築ビルのように若いからかも知れない。 しかし、私は若いときは暗かった。 高齢になったにも関わらず、今の方が明るい気持ちで日々暮らしている。

私自身の性格は変わってないのだから、人の気持ちが明るくなるも、暗くなるも、周りの人の気持ち次第だと思う。 S先生は目が不自由だが、家族とか友人の影響を受けて明るい性格に育ったのだと思う。 私も良い影響を与えられるような人になりたいと、心から思う今日この頃である。
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2007年12月10日

カモマップにびっくり!

2007/12/10

「カモマップにびっくり!」         
2006年新春 中島公園
冬になると菖蒲池は凍結し、水場を求めて鴨々川に移動します。 ところが、その鴨々川が凍結してしまったのです。 こんなことは初めてです。 

川は水が流れているので、凍りにくいのです。 それがなぜ凍ったか。 いうまでもな水の流れが極端に少なくなったからです。 原因は河川工事です。 鴨々川の水を止めて、川底を掘り起こし、直径1mmの導水管を川の下に埋め込みました。 

2006年春 某市役所
最近少し忙しかったです。「鴨々川導水管布設工事」のためです。監督でも作業員でもありませんが、工事現場付近の住民としてチョッと忙しかったですね。

鴨々川は池が凍結して住めなくなった鴨たちの冬の生息場所です。そこで川底をひっくり返しての大工事です。鴨たちは行き場を失い、腹を空かして右往左往していました。

みかねて、口の聞けない鴨たちに成り代わり、市に陳情に行ってきました。「報道によると鴨の生息環境を壊さぬよう注意したい」と話しているが、「具体的にどんな点を注意をしているのか!」と詰め寄ると、担当者は「資料をとって来ます」と言って、座を外しました。

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帰ってくるなりテーブルに資料を広げ、説明を始めました。「鴨は冬になると水場を求め・・・、うんぬん。導水管はそこを避けてうんぬん・・・・」 

おや?このマップ?? どこかで見たことが? なんと、ビックリ! 私が作って「中島パフェ」にアップしたカモマップではないですか。嘘みたいですが、ホントの話です。

思わず「これは私が・・・」と言いかけましたが、止めました。 それを言ったらカモマップの値打ちが下がるような気がしたのです。 説明が終わると「これ、頂いてよろしいでしょうか?」と下手に出て、「市公認」となったカモマップを大事に持ち帰りました。
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2007年12月09日

魚屋シンちゃん(後編)

2007/12/9

「魚屋シンちゃん(後編)」         
隣の魚屋さんは確かに立派です。 空襲で焼かれて「無一文の衣食住なし」から立ち直って3年後には財産も蓄えたのですから。 しかし、妻子は奴隷のように働かされていました。 既に生活も安定していたのに、一向にたずなを緩めません。

親父は威張っていて、母親は唯々諾々と夫に従うだけ「子供ばかりが家の為」という感じでした。嫌な仕事は子供に押し付けます。活きの悪い売れ残りの魚を売るのは本当に大変でした。

シンちゃんは売れ残った魚をリヤカーに積んで売りに行かされますが、コースも時間もだいたい決まっていました。 坂の手前で待っていて、「押しましょうか」と声をかけると、少し笑って「うん」といいます。私の狙いは「さつま揚げ」や「はんぺん」です。そのまま食えますからね。

売れ残りですから活きも悪く「昨日買った魚が食えないから引き取れ」と要求する客もいました。シンちゃんは詫びて、黙って泣くだけで、決して魚を引き取ってお金を返したりしません。 客は諦めて、捨て台詞を残して帰りますが、シンちゃんはまだ泣いています。

そこで私の出番です。客が遠ざかったのを見定めて「バカヤロー、ションベンひっかけるぞ〜!」と聞こえないように怒鳴ります。シンちゃん、泣き止んで「食べるか」と言ってさつま揚げ一枚私にくれますが、売り物ですから自分は決して食べません。シンちゃんの親父は、金はあるけれど厳しいのです。

塀や壁にですが、たまには本当にひっかけます。口先だけでなく誠意を見せることが肝心です。シンちゃんがやりたくても出来ないことを、代わりにやって上げる。これが本当のサービスです。こうして私はシンちゃんの片腕となり、栄養補給に成功しました。

30年後、シンちゃんの家を見に行くと5階建てのビルになっていました。シンちゃんも当時のことを思い出さないはずはありません。私のことも覚えていると思います。「頭でっかちの可愛いやつだったな、まだ、生きているかな?」 

多分この世にはいないと思っているでしょう。生きているなら会いに来るはずです。私はそう確信しています。幼少時代の絆は強いのです。

しかし、私に限らず、我家の人間が近所だった人に会いに行くことはありません。合わせる顔がないのです。 我家だった場所は居酒屋になっていたので、入ってみました。もちろん知らない人が営業しています。あの辺に座ってご飯食べていたなとか、いろいろ思い出しました。

幼少の頃「くれ」とか「ちょうだい」とか言った記憶はありません。意識したわけではなく、そういう言葉が口から出なくなってしまったのです。

ちょうだいと言っては拒否されることを繰り返すうちに、言えなくなってしまったのです。「くれ」と言えるようになったのは大人になり生活が安定してからです。(完)

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渡りの途中か中島公園の菖蒲池でホウジロガモが見えた。何となく孤独な感じが漂い寂しそう。 一羽だけで来たのだろうか。

大都会の真ん中で同じような孤独を感じた。30年ぶりの故郷だが、迎える人はいない。魚屋の奥に包丁を握るシンちゃんの弟のケン坊が見えた。子供の頃の面影が残っているが、声をかけたくてもかけられない。仕方なく隣の居酒屋に入る。 そこは私が育った家の筈だが、「いらっしゃいませ!」と迎えられた。
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2007年12月08日

魚屋シンちゃん(前編)

2007/12/8

「魚屋シンちゃん(前編)」         
小さな子供にとって母親はすべてですが、母親の方はいろいろです。 子がすべての母親は多いと思いますが、そうでない母親も少なくありません。 いくら貧乏でも子供のパンツ(下着)一枚ぐらいは用意することは出来ます。 

自分の不幸ばかりを嘆いていて、子供のことなど眼中にない母親もいます。なんといったって、母親になる資格試験はないのですから、こんなことがあっても不思議ではありません。

「身体検査はパンツ一枚と決まっているだろ。何でお前だけズボン、はいているんだ!早く脱げ!!」と先生は血相変えて怒ります。

しかし、パンツをはいていないのでズボンは脱げません。身体がガタガタ震え、大粒の涙がぽろぽろ出てきました。

フ○チンになるよりも、パンツ持っていないことが、クラスの皆にバレるほうが、恥ずかしいのです。

何故か、ひもじかった、寒かった記憶は残らない。覚えているのは、それらに伴う屈辱感だけです。小学3年でも屈辱感は充分感じます。

戦後4年もたつと貧しいとはいえ、暮らしは落ち着いてきています。多くの人々が倹約に倹約を重ね少しずつ生活を改善していたのに、我家だけが終戦直後のままです。母親が見栄っ張りで計画性がないからです。 戦前の豊かな生活が忘れられないのですね。

近所の魚屋も何もかも空襲で焼かれ、無一文からのスタートでしたが、そのとき既に小金持ちになっていました。親父は凄く厳しく、母子5人が奴隷のように働かされていました。特に長男が悲惨でした。シンちゃんという愛称の中学3年生。気の優しい子でした。

無一文から努力して、2、3年の間に小金もちになった魚屋さんはたいしたものですが、ここでも子供は不幸でした。 嫌な仕事は皆、子供の役目です。 不幸な子供同士はやがて協力しあうようになりました。 --後編に続く--
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この鳥は不幸な野鳥です。マヒワと思いますが、我家の窓ガラスに激突し、しばらくの間、飛べなくなりました。

幸せな生活は淡々と続きますが、不幸は突然やって来ます。国全体の不幸は私の生まれる前から始まっていましたが、我家の不幸は終戦により突然やって来ました。 父親が勤めていた航空機製造会社がつぶれたのです。
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2007年12月07日

汽車弁家族(後編)

2007/12/7

「汽車弁家族(後編)」         
空襲で全てを失った私達家族は、明日の糧にも困る状態に陥りました。その解決策として汽車弁の食べ残しを集めることにしました。 当時は弁当を食べ残す人はほとんどいません。 そこで、全国から汽車が集まるB駅、操車場の清掃前の客車をターゲットに定めました。

名古屋の鯛めし以外は忘れましたが、全国津々浦々の弁当が我家の食卓に並びました。さながら、弁当品評会みたいなもので、それなりに楽しい食事でした。ただ、この宴を楽しむには一つだけ条件がありました。それは「だれにも知られない」 これが肝心です。

終戦前は豊かな暮らしをしていたので、極貧状態になってもプライドだけは高く、乞食同様の暮らしをしていることは秘密中の秘密でした。 後から考えれば、こんなことが長続きするはずはないのですが、当時は名案と思いました。

破綻は案外早くきました。運搬中に兄が警察に捕まりました。リュックを開けることを強引に拒んだので逮捕されたのです。中身はスカスカの残り弁当箱ですから、軽いのですがリュックの大きさが凄いのです。それでヤミ屋と疑われたのです。

交番に連れて行かれリュックは強制的に開けられました。中身を見た警官は同情し、詫びて励ましてくれたそうですが、兄の受けたショックが収まる筈がありません。警察に捕まったのが、ショックなのではなく、残飯を食べていることを知られたのがショックなのです。

兄は10歳までは豊かな家庭の坊ちゃんとして育ちました。3年後には、この落差です。兄は立ち直れなくなり、その後、病床に臥し回復するのに数年もかかりました。一家も食うに困る生活に逆戻りです。

長男はショボクレテしまっても、次男と私はまだ元気が残っていました。これも兄の汽車弁のお陰と感謝はしています。

「腹減ったな、車庫をやるぞ!」と次男が言うと、私は「ガッテンだ」と応じました。 車庫というのは、近くにある路面電車庫のことです。まだ空襲で焼けた資材が利用されることもなく放置されていました。

人気のないことを確認して、二人でやっと持てる大きさの鉄棒を持ち出しました。「アカ(銅)なら金になるんだがな〜」とかボヤキながら馴染みのクズ屋に持って行くと、足元をみられてたった8円でした。甘食(小さな甘いパン)買って半分ずつ食べました。

これが最後の「悪事」です。10歳からは新聞配達のアルバイトを見つけて正当な報酬を得るようになりました。

私はテレビなどで、戦時下に置かれた小さな子供が、くわえタバコなどをして粋がっている姿をみると何となく愛おしく感じます。 子供が大人ぶって虚勢をはらないと生きていけない地域が、今でもあることは不幸なことです。(完)
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エサを失った鴨は人のくれるパンを求めて地下鉄幌平橋駅に向って行きます。60年前、食料というエサを失って遠いB駅の操車場に向った、私達家族の姿とオーバーラップします。 

日本は食糧自給率40%ですが、戦争どころか食料難の苦労も知らない人がほとんどになりました。 人間が、可哀想なあの鴨のようになる条件が出来てしまいました。地球温暖化と相俟って危険水域に入っているのではないでしょうか。
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2007年12月06日

汽車弁家族(前編)

2007/12/6

「汽車弁家族(前編)」         
「また、名古屋の鯛めしか〜」
「贅沢言うんじゃないよ、裁判官だって餓死しているんだよ!」
昭和24年の我家の食卓での会話です。家の中は全国の汽車弁の空き箱でいっぱいでした。

バラック住まいとはいえ乞食ではないので「お恵みください」とは言えません。返す当てはないのですが、、一応「貸して下さい」と言います。「借りる・返さない」を繰り返しているうちに、どこからも相手にされない一家になってしまいました。

もう明日から食べる米はもちろん、芋もかぼちゃも、何もありません。「窮すれば通ず」といいますが、まさにその通りです。汽車弁の残りを食べることを思い付きました。しかし、A駅では家族6人分の弁当を確保することはできません。 弁当といっても食べ残しです。当時は弁当を残す人は非常に少ないのです。

そこで家族会議です。一家の存亡を託した会議ですから真剣です。協議の結果、場所はB駅の操車場、狙いは清掃前の客車と決定しました。

ここには全国各地から膨大な量の弁当の空き箱が集まって来ます。 
「飯もおかずもいっぱい残っているぞ〜!」
病床の父から力強い助言がありました。この界隈に詳しいのは父だけです。

場所が決まれば次は人事です。運搬役は中一の兄、検査役は母と決めました。衛生には人一倍うるさい母です。検査を通れば安心して食べることが出来ます。

次男と三男たる私はカマ焚き役です。当時は機関士の助手は「カマ焚き」と呼ばれ機関士への登竜門でした。機関士は少年達の憧れの的です。

経木の弁当箱だけでは燃料不足なので、「カマタキー、石炭ないぞ〜」と声がかかると「ガッテンだ」と応じ魚屋の傍にいって、空き箱を黙ってもらってきます。魚の油が沁みこんでいるので、めらめら燃えて気分がよかったです。

検査は先ず、見た目です。次は鼻で臭いをかぎ、最後にホンの少量を口に含んでみます。これで異常がなければ合格です。合格した「製品」は熱湯消毒を兼ねて蒸かします。そのとき役に立つのが弁当の空箱です。経木で出来ているので火が付き易くよく燃えます。包み紙から割り箸まで燃やせるのだから便利です。

これで我家の食糧問題は解決かと思い、ホッとしたのもつかの間。 思わぬ問題で頓挫してしまい、元の木阿弥となりました。 → --(後編)に続く--
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2006年1月鴨々川河川工事のため、冬の棲息場所となっている鴨々川が凍結し、水場を失った鴨は、同時にエサも失いました。 鴨は水場とエサを求めて中島公園上空を右往左往しました。

人間も衣食住を失えば、水場とエサを失った鴨と同じです。 幸いA市では水道管は破壊されなかったので、水道を共同で使うことが出来ました。 しかし、この鴨たちと同様にエサを求めて右往左往することになりました。 
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2007年12月05日

もしも3億当たったら

2007/12/5

「もしも3億当たったら」       
「家庭的で良い夫」と言われてきた私だが、人生黄昏ともなれば、「これでいいのか」との思いも芽生えてくる。

女性6人男性2人のグループで忘年ランチ会を開いた。喫茶店での二次会に移り、お馴染みの話題でお喋りも盛り上がっていた。 暮れになれば毎度のことだが、もしも宝くじで3億円当ったらどう使おうという、あの話である。

「私なら豪華客船に乗って世界一周旅行がいいな」
「それじゃ余っちゃうよ。2億円の豪華マンションを買って〜、残りはどうしようかな」
「何をつまらないこと言ってるのよ。3億くらい自由に使っていれば、いつの間にか無くなってしまうよ」

こう言い放ったのは海外、国内問わず1年の内半分は旅行している、お金持ち風のA子さんだが、突然こちらを向くと、
「アンタさっきから黙っているけど、何に使いたいの?」

急に問われた私は、その場の空気も読めず、思わず本音を漏らしてしまった。
「私は、若者を育てるというか、奨学金にするのがいいと思います」
「何を格好つけてるのよ〜。モテようと思ってぇ〜」
「お金は教育の為に使うのが一番良いと思いますが…」
「いいから、いいから、次のひと〜」

人にものを尋ねたら最後まで聞いて欲しい。 私は札幌の至宝「中島公園」を良好な状態に維持して次世代に引き継ぎたいと考えている。

このままにしておけば都会の波に飲み込まれてしまうだろう。 ビルに囲まれた、藻岩山の見えない中島公園。果たして、これは先人が望んだ姿であろうか。

この状態を打開する為には、若い優秀な頭脳と力が必要だ。 本来、自治体や国が行うべきことだが、彼らは現状を認識することさえ出来ない。もし3億円あれば、起爆剤としては充分だ。これを有効に使わない手はない。
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A子さんも、なんやかや言っても6年ごしの付き合いだ。皆との話が途切れれば、私の話も聞いてくれる。 しかし、反応は相変わらず厳しい。

「あんた、ケチのくせに、考えることだけは気前いいのね〜」
「少しは見直して頂けたでしょうか」
「ケチと無教養はダメよ。 亭主より格好の悪い男もダメ!」
「ご主人はヨボヨボのガリガリと伺っておりますが…」
「やせても枯れても、伝統あるH大スキー部のキャプテンよ」
「それは昔でしょ。今はどうなんです」
「社長よ!」

6年間の付き合いだが、A子さんの夫が社長とは初めて聞いた。これだからシニアの付き合いは面白い。 

再び話題を3億円に戻そう。 もしも3億円当たったら、迷わず中島公園救済の為、びた一文余すことなく使うだろう。 宝くじを当てた人間が、滅び行く老舗公園の未来の為に使う。 自分の運を活かす為、社会に還元する。至極当然のことである。決して格好つけているわけではない。まして、モテようとなど思うわけがない! 人を誤解するのもいい加減にして欲しい!!

「それで…。あんた、何枚買ったのよ〜」
「… … …」
「え〜ぇ。買ってないの〜ぉ。あ・き・れ・た」
「…」
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2007年12月04日

上流社会のM君(後編)

2007/12/4

「上流社会のM君(後編)」         
M君のお屋敷で優しそうなお母さんにお菓子をご馳走になり、至福のひとときを過ごしました。 しかし、帰りがけに「君の家に遊びに行きたい」と言われ、戸惑ってしまいました。あの惨めなバラックは絶対にM君には見せたくなかったのです。

何とか思い止まってもらおうと、「遠いよ、野良犬もいるし、危ないんだ」とか言って説得に努めましたが、「君だって僕の家に来たのだから」と言われては、ノーとはいえません。

足が重くのろのろと家に向って歩いたことを今でも覚えています。バラックの家の前に連れて行くのは、どうしても嫌なので、家の見える高台に連れて行き「あすこ」と指をさしました。 

M君は一瞬の内に全てを理解したようです。そしてこう言ったのです。「君の方が恵まれているよ。僕の家なんか借りものだよ」
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焼けトタンのバラックは冬は隙間風で寒く、夏はトタンが焼けて暑く、居住環境として最悪です。北海道に来ても、こんな寒い思いをしたことはありません。 

それでも暑さ寒さはなんとか我慢できますが、一番辛いのはこのバラックに住んでいることを知られると、仲間はずれにされることです。そのときはM君の一言でホッとしました。「大丈夫だった、嫌われなかった」と安心したのです。

M君は小学3年で既に紳士です。驚きですね。あの優しそうなお母さんの教育のせいかも知れません。私はこんな立派な子供に育てる、「上流社会」の人が大好きです。

社会全体が混沌とし、弱肉強食はびこる時代でしたが、反面博愛主義的な生き方を信条とする人も少なくなかったと思います。
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2007年12月03日

上流社会のM君(前編)

2007/12/3

「上流社会のM君(前編)」         
「病気と貧乏はうつるから傍によるんじゃないよ」とよく言われましたが、ホントですね。養父が肺病になり、それが兄にうつり、貧乏は家族全員にうつることになりました。病気のせいで家を建てる為の金も、食う為の金も全て失いました。

敗戦後4年目のA市は復興めざましく、新築の木造住宅街がほぼ完成しました。その中で焼けトタンのバラックは嫌でも目立ちます。今でもA市A2丁目に行って、当時住んでいた年寄りに聞けばこのバラックのことは覚えていると思います。 しかし、「Dの知り合いなら貸した金かえせ〜」と言われるかも知れません。聞かない方が無難でしょう。

私は「上流社会」の人が好きです。貧乏人は自分より貧乏な極貧人をバカにして苛めるのですが、良家のご子息は違います。小学3年のときですが、同級生のM君がお屋敷のような家に招待してくれました。優しそうなお母さんがお菓子を出して歓待してくれました。
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何回か遊びに行くうちに、「君の家に遊びに行きたい」と言われ、困ってしまいました。あの惨めなバラックを見られるのかと思うと、ぞ〜っとします。あのバラックこそ極貧の象徴。あんなもの見られたら恥ずかしくて合わせる顔もありません。

何とか断ろうと、いろいろ理由をつけてみましたが、本当のことを言えないので、説得力がありません。 -後編に続く-
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